古都に春の到来を告げる、薬師寺の花会式

◆◇◆古都に春の到来を告げる、薬師寺の花会式(はなえしき・3.30-4.5)

薬師寺の花会式(はなえしき・3.30-4.5)は古都・奈良に春の到来を告げる行事です。奈良県奈良市西ノ京町の薬師寺では、花会式(はなえしき)が同寺金堂で営まれています。薬師寺の本尊・薬師三尊像(国宝)の前には十種(梅、桃、桜、山吹、椿、牡丹、藤、百合、杜若,菊)、約二千本の和紙の花(造花)が彩られました。

花会式(はなえしき)は薬師寺の国家の安泰と五穀豊穣、万民豊楽を祈念する最大の法要(修二会)です。この修ニ会とは奈良の色々なお寺で行われており、例えば東大寺のお水取りも、東大寺の修ニ会の行事の一つです。薬師寺では僧らの唱える南都声明とあいまって、堂内は華やかな空気に包まれ、法要は三月三十日~四月五日まで続き、最終日には「鬼追式(鬼追いの儀)」の行事が行われます。修ニ会(花会式)に参篭する僧のことを「練行衆」と言います。

薬師寺は天武天皇九年(680)、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を願って建立されたものです。実際の完成は持統天皇十一年(697)でした。当時は藤原京にありましたが、平城京遷都に伴い、現在地に移されました。何度も火災にあっていますが、唯一東塔のみが創建当時の姿をとどめています。その対となる西塔は昭和五十六年に再建され、現在は当時と同じ二つの三重塔に守られた形になっています。

薬師寺では古くは二月に本尊薬師如来に国家の安泰と五穀豊穣、万民豊楽を祈る修二会が行われていたが、平安時代、薬師如来の霊剣で堀河天皇の皇后の病気が治癒した御礼に、造花十種十二瓶の献花が供えられて以来、四月に行われるようになったのが由来です。一般に「花会式(はなえしき)」呼んでいます。

スサノヲ

 

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春、桜の語源と稲作信仰、花の日と花祭り

 

 

◆◇◆桜の語源と稲作信仰(サ神信仰)

桜の語源については、春には山の神さまは田の神さまになり、「御田植えの神」になるため里に降りてくるとされています。山の神さまは山から降りて来る途中、桜に宿るとされています。サクラの「サ」は山の神さま(稲の神さま)のことで、「クラ」は山の神さまが一時宿る神の座を意味していると言われています。そこから、桜を「サクラ」というようになったそうです。そうしたように、サクラは稲作信仰と強く結びついています。福島県では種をまく時期をサクラに頼っていたとか、福島県岩代町では稲代作りの目安になるサクラを「コエアゲサクラ」といい、福島県白河市では、「稲代しめ桜」というそうです。

◆◇◆花の日(春山入り)と稲作信仰(サ神信仰)

民間行事の花祭りは花の日とか春山入りとも呼ばれ、この日にお墓参りをしたり、山に登って花(石楠花が多い)を摘み、それを長い竹の先につけて庭に立て、これによって山の神さまを里に迎え入れるとします。一般に日本では山の神さまが春に里に下りてきて田の神さまとなり(さおり)、田の神さまが秋には山に帰って山の神さまとなる(さのぼり)という基盤的な信仰が存在しました。またこの時期は桜を愛でる花見の季節でもあります。

◆◇◆花祭り(灌仏会・釈尊降誕会・仏生会・浴仏会)

「花祭り」とはお釈迦様の誕生日のことです。仏教では灌仏会(かんぶつえ)又は釈尊降誕会(しゃくそんごうたんえ)と言い、釈迦誕生仏像に参拝客が甘茶を掛ける行事が行われます。仏生会・浴仏会などとも言います。灌仏会を花祭りと呼ぶのは一般には浄土宗・浄土真宗系のお寺が多いようですが、元々はこれは仏教の灌仏会と、民間行事の花祭りとが合体してできたのではないかとも言われます。だいたい明治後期頃、欧州留学僧たちが言い出した呼び名のようです。

この「花祭り」と呼ばれる灌仏会の場合、お堂を花で一杯に飾り花御堂として、その中に水盤に乗せた誕生仏を置き、竹の柄杓で甘茶あるいは五種の香水を掛けます。またお釈迦様のお母さんの麻耶夫人が白い象が体内に入る夢を見てお釈迦様を妊娠したという伝説にもとづき、境内に大きな白い象の作り物が置かれるところもあります。この象の上に花で飾った輿にのせた誕生仏を乗せパレードをするお寺もあります。

お茶を掛けるのは、生まれたばかりのお釈迦様に天から九竜が香湯を注いだという伝説にちなんだものと言われます。一部の地方ではこの甘茶をもらって帰り、それで墨をすって「千早振る卯月八日は吉日よ神さげ虫を成敗ぞする」という歌を書いてトイレや柱などに逆さまに貼り付けると蛇や害虫がやってこない、というおまじないがあります。

◆花見の由来は、古来から祓(はら)いのための宗教的行事

桜の木の下での春の楽しみといえば、お花見です。「三日見ぬまの桜かな」と歌われたように、うっかりするとすぐに散ってしまうのが桜です。定番のお花見といえば、桜の木の下で日頃の憂さ晴らしとドンチャン騒ぎ、その日ばかりは無礼講のようです。お花見とは名目で、本当は桜は酒の肴にすぎず、飲み食いに重点があるようです。

しかし、花見の由来は、古来から祓(はら)いのための宗教的行事だったようです。期日が設定され、野山に出かけ花を愛で、その下で楽しむことで、厄を祓(はら)い神さまと過ごすとされていました。かつては、秋の実りを願い、花の下でお祭りをし、花で収穫を占ったのです。開花は神様が降りられた証で、パッと散ると凶とされました。

お花見は平安時代より貴族が始め、今の京都の二条城のあたりに天皇が行幸(ぎょうこう)し桜見物を行ったそうです。貴族・武士で盛んになり、豊臣秀吉が行った「吉野の花見」は有名です。江戸時代になると庶民の娯楽として定着しました。桜の季節が近づくとなぜか心が弾みます。日本人にとって、花見はきってもきれない春の楽しみになってしまったようです。

お花見といえば 「桜」、何故でしょうか?古来「花」といえば「桜」をさすほど日本人にとっては大切な花だったようです。また桜は山の神が降りてくる時の目印になる木として、特別に神聖視されており、お花見につきもののお酒も、本来は神に供えたお下がりを皆でいただくものだったのです(今は、全く本来の意味を忘れてしまっていますね・・・苦笑)。さくらの「さ」は山の神さま(田の神さま・稲の神さま)、「くら」は山の神さま(田の神さま・稲の神さま)のおわします座を意味し、桜の木は神様の依り代であるのです。また、「咲く」から来ているという説もあり、花といえば桜、咲くといえば桜だったとしたら日本人好みの花ということになります。

春、団子の起源と稲作信仰、お花見と桜

◆◇◆団子と稲作信仰、三月は十六団子、四月は花見団子・・・

団子は昔から季節に応じて食べられてきました。三月は十六団子です。山の神さまが下りてきて田の神さまになる時にお供えするものです。四月は花見団子です。桜を見ながら、桜色の団子や三色団子などをいただきます。旧暦八月には月見団子。中秋の名月を見ながら、白い団子を頂きます。十一月にはまた十六団子。今度は田の神様が山に戻って山の神様になるのにお供えします。

◆◇◆団子の起源と語源

日本で団子が作られるようになったのは縄文時代頃であろうといわれています。初期の団子はいわゆる「粢(しとぎ)」で、米・粟(あわ)・稗(ひえ)・黍(きび)・豆・椚(くぬぎ)の実・楢(なら)の実などを粉にして水で練った、火を使わない団子でした。これは現在でも民間習俗で死者の枕元に供える枕団子がこの粢(しとぎ)の方式です。

「団子(だんご)」という言葉の語源については定かではありませんが、中国の「団子(トゥアンズ、餡入り団子、日本の団子に相当するものは中国では円子、なおちなみに団の旧字は團、円の旧字は圓)」から来たという説、「団」が丸いという意味なので形から来たという説、「団」は集めるという意味で粉を集めて作るからだという説、などなどがあるようです。

串団子は室町時代頃に発生したと言われていますが、最初の頃は五個刺すのが基本でしたが明和年間に四個のものがはやったとされます。現在では団子の大きさ次第で三個から五個の範囲で刺しているようです。

◆桜の語源と稲作信仰(サ神信仰)

桜の語源については、春には山の神さまは田の神さまになり、「御田植えの神」になるため里に降りてくるとされています。山の神さまは山から降りて来る途中、桜に宿るとされています。サクラの「サ」は山の神さま(稲の神さま)のことで、「クラ」は山の神さまが一時宿る神の座を意味していると言われています。そこから、桜を「サクラ」というようになったそうです。そうしたように、サクラは稲作信仰と強く結びついています。福島県では種をまく時期をサクラに頼っていたとか、福島県岩代町では稲代作りの目安になるサクラを「コエアゲサクラ」といい、福島県白河市では、「稲代しめ桜」というそうです。ちなみに、サクラはバラ科で、原産地は韓国済州島です。

◆◇◆花の日(春山入り)と稲作信仰(サ神信仰)

民間行事の花祭りは花の日とか春山入りとも呼ばれ、この日にお墓参りをしたり、山に登って花(石楠花が多い)を摘み、それを長い竹の先につけて庭に立て、これによって山の神さまを里に迎え入れるとします。一般に日本では山の神さまが春に里に下りてきて田の神さまとなり(さおり)、田の神さまが秋には山に帰って山の神さまとなる(さのぼり)という基盤的な信仰が存在しました。またこの時期は桜を愛でる花見の季節でもあります。

◆◇◆花祭り(灌仏会・釈尊降誕会・仏生会・浴仏会)

「花祭り」とはお釈迦様の誕生日のことです。仏教では灌仏会(かんぶつえ)又は釈尊降誕会(しゃくそんごうたんえ)と言い、釈迦誕生仏像に参拝客が甘茶を掛ける行事が行われます。仏生会・浴仏会などとも言います。灌仏会を花祭りと呼ぶのは一般には浄土宗・浄土真宗系のお寺が多いようですが、元々はこれは仏教の灌仏会と、民間行事の花祭りとが合体してできたのではないかとも言われます。だいたい明治後期頃、欧州留学僧たちが言い出した呼び名のようです。

この「花祭り」と呼ばれる灌仏会の場合、お堂を花で一杯に飾り花御堂として、その中に水盤に乗せた誕生仏を置き、竹の柄杓で甘茶あるいは五種の香水を掛けます。またお釈迦様のお母さんの麻耶夫人が白い象が体内に入る夢を見てお釈迦様を妊娠したという伝説にもとづき、境内に大きな白い象の作り物が置かれるところもあります。この象の上に花で飾った輿にのせた誕生仏を乗せパレードをするお寺もあります。

お茶を掛けるのは、生まれたばかりのお釈迦様に天から九竜が香湯を注いだという伝説にちなんだものと言われます。一部の地方ではこの甘茶をもらって帰り、それで墨をすって「千早振る卯月八日は吉日よ神さげ虫を成敗ぞする」という歌を書いてトイレや柱などに逆さまに貼り付けると蛇や害虫がやってこない、というおまじないがあります。

◆四百年の天下の奇祭!、滋賀県近江八幡市・左義長まつり

3月12日~3月13日の二日間(毎年3月14・15日に近い土、日曜)、滋賀県近江八幡市宮内町の日牟礼八幡宮で、湖国近江路に春の到来を告げる「左義長まつり」が行われる。

日牟礼(ひむれ)八幡宮の左義長まつりは、その昔 織田信長も自ら異粧華美な姿で踊り出たと『信長公記』に記された四百年の伝統を誇る天下の「奇祭」だ。

初日は参加町内が趣向を競って作った高さ約七メートルの左義長山車を、女装した若衆たちが担いで練り歩く。

二日目は近江八幡市の旧市街を左義長山車が巡行し、午後八時ごろからは日牟礼八幡宮で山車に順に火を放ってフィナーレを迎える。

この祭りは「近江八幡の火まつり」の一つとして国の選択無形民俗文化財に選ばれている(火祭りは「左義長まつり」の他に4月の「八幡まつり」、5月の「篠田の花火」があり近江八幡の三大火祭りといわれてる)。 (※注1)

高さ約七メートルの左義長山車は、昆布や豆など山海の幸を使って丹念に飾り付けた干支の飾り物が見どころで、竹と藁で組んだ三角錐の松明の山車の正面を思い思いに彩る。

初日の午後1時、年の干支や赤紙で飾った16基の山車が次々と日牟礼八幡宮に入る。そして花火を合図に「まっせ、まっせ」「ちょうやれ、ちょうやれ」という声を掛け合い、市中をまわる。

二日目は市街地を練り歩き、「けんか」と呼ばれる山車同士が激しくぶつかり合う「組み合わせ」があちらこちらで繰り広げられる。その後午後8時から八幡宮の馬場で山車が一斉に燃やされ、燃え盛る山車の炎は早春の夜空を焦がし、その飛び散る火の粉を浴びて若衆たちは乱舞する。

左義長まつりは織田信長が安土城下ではじめ、廃城後、豊臣秀次が開いた八幡城下町の町衆が再開したとされている。織田信長亡き後、豊臣秀次が湖東三郡の領主となり八幡山に城を築き、安土城下の住民を移住させて城下町を開いたのが近江八幡市の始まりだ(全長6キロメートルにわたる運河「八幡掘」を設け、職人町・商人町・仲介商人町などと筋々を決めて整然とした碁盤の目に整備された町をつくる。八幡城下町には、楽市楽座が開き、水陸の交通を利用して多くの人々が立ち寄り、多数の物資や情報が集まった)。

この地に千数百年前から伝わる日牟礼八幡宮の例祭「八幡まつり」の荘厳さに驚いた新町民は、開町による新進気鋭の喜びを込め、厄除け・防火の由緒ある御神徳を仰ぎ「左義長」を八幡宮に奉納したと伝えてる。

その後、八幡の町は近江商人の隆盛により商いの町として繁栄するようになり、現在の左義長まつりは商売繁盛を祈願する祭りとしての意味合いが濃くなっていった。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 火に関わる祭りは、霜月から小正月にかけて行われる「冬の祭り(どんど焼き・左義長など)」と、盆行事にかけて行われる「夏の祭り(お盆の迎え火・送り火など)」に、大きく分けられる。

火は古来から神聖なものとして取り扱われ、火に対する畏怖の念は信仰の対象として、さまざまな祭祀祭礼に大きな影響を与えてきた。

平安時代の宮中では、清涼殿の東庭で青竹を束ねて立て毬杖(ぎちょう)三個を結び、その上に扇子や短冊などを添え、陰陽師が謡い囃しながらこれを焼く「左義長」という行事があった。

今日では正月十五日前後に行われ、民間行事として正月の松飾りや注連縄を集めて焼く火祭りの行事である。ほぼ全国的にみられるが、地方によって、どんど焼、さいとやき、三九郎焼(さんくろうやき)、ほちょじ、ほっけんぎょうなどの名称で行われている。

神社では旧年のお守り、いただいたお神札に感謝して、古神札の焼納も併せて行われるが、この火にあたると若返るとか、餅を焼いて食べると病気をしないとか、書初をかざしてそれが高く舞い上がると書が上手になるなどともいわれた。

一年の始めにあたり、穢を祓い清めて、暖かい春の到来とその年の豊かな収穫を祈る行事でもある左義長。その左義長の語源には鞠杖(ぎちょう)の意味だとする説などがある。

◆皇室の祭祀、大祭と小祭

このように神武天皇と先の天皇のお祭りは大祭、それから三代前までの天皇のお祭りは小祭が行われています。また、それ以外の御祖先については年に二回、春と秋に「皇霊祭」が行われています。歴代天皇すべての天皇について個別に祭祀を行っていては、却って疎かになってしまうかもしれないということで、このような形がとられるようになったそうです。これらの皇室の祭祀はすべて宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)の中の皇霊殿で行われます。また、神武天皇祭、孝明天皇例祭、明治天皇例祭、大正天皇祭、昭和天皇祭については墓所でも祭祀が行われます。

◆◇◆春季皇霊祭・秋季皇霊祭

明治維新は政治的にも武家の政治(江戸幕府)を終焉させ近代民主国家への道を切り開くものでしたが、宗教界にも大きな変革を強要しました。その中心が江戸時代にキリスト教対策で重視されていた寺を排斥・弱体化(神仏判然令・廃仏毀釈運動)させるとともに、明治維新の原動力(尊王攘夷運動と王政復古の波、平田学と後期水戸学)の一つとなった国学(本居宣長・平田篤胤など)の流れを汲む国家神道を樹立して、全国の神社を皇室に縁の深い伊勢神宮を頂点とするヒエラルキーに組み込もうと図りました(近代社格制度の整備とは、伊勢神宮をトップとした神社のランク付け)。

この動きはいわば皇室の神道の普遍化(国家神道は、天皇の宗教的権威の中心に皇室神道と神社神道とを直結し、皇室の祭祀を基準に神社の祭祀を画一的に再構成すること)を狙ったものともいえますが、そのため初期の段階では歴代の天皇の命日を全て新暦に換算した上で、その命日全てにお祭りをする、という企画が立てられました。

しかし・・・天皇といっても初代神武から、明治天皇の先代の孝明天皇まで百二十一代に及んでいますので、これを全て命日のお祭りをするのは、実際やってみると非常にたいへんことでした。そこで明治政府は早々にこの方法に根を上げて、結局神武天皇の命日(四月三日)と孝明天皇の命日(一月三十一日)のみを残して、あとは民間でも先祖供養の日としている春・秋のお彼岸に春季皇霊祭・秋季皇霊祭としてまとめてお祭りすることになったものです。

春季皇霊祭・秋季皇霊祭は明治十一年に祝日として定められ太平洋戦争の終わりまで続きました。戦後の春分の日・秋分の日は戦前のそういう趣旨は排除した上で、もともとの民間の先祖供養の日としての趣旨のお彼岸を復活させたものです。春季皇霊祭・秋季皇霊祭は宮中行事・皇室の祭祀として行われます。

宮中行事・皇室の祭祀の春季皇霊祭・秋季皇霊祭は、三月の春分の日と九月の秋分の日(彼岸の中日)に、天皇家の祖先を崇める祭りです。天皇が皇霊殿で玉串を捧げて拝礼し、告文を奏します。続いて、神殿でも親祭が行われます。皇霊殿では「東遊(あずまあそび)」と呼ばれる雅楽が奉納されます。(お彼岸についてのHPより要約抜粋)

◆◇◆皇室祭祀

明治十四年に制定された「皇室祭祀令」に基づいて行われます。大祭と小祭に分けられ、大祭は天皇自らが行い、小祭は掌典長(しょうてんちょう)(天皇家の私的内廷組織)が指揮します。天皇はそれに拝礼する形をとります。

皇室祭祀は、主として吹上御苑(ふきあげぎょえん)にある宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)で行われますが、先帝を祀る山稜でも行われます。戦前は、こうした祭祀には総理大臣はじめ多くの参列者がありましたが、昭和二十年の「政教分離」により、今では天皇家の私的行事の色彩が濃くなっています。

◆春季皇霊祭と皇室の祭祀

宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)のひとつ、皇霊殿には、歴代天皇・皇族方の御霊がお祀りされています。明治以前は、仏式により寺院や宮中のお黒戸に霊碑を奉祀しておりましたが、明治天皇は、これを神式に改められ、皇霊殿において春秋ニ季の皇霊祭を行うことを制定されました。春分・秋分の日は彼岸の中日として、古くから先祖の御霊を祀る日とされていましたが、明治十一年に明治天皇がこの日を皇霊祭の祭日に定められたことにより休日となり太平洋戦争の終わりまで続きました。

現在では、戦後の春分の日・秋分の日は戦前のそういう趣旨は排除した上で、もともとの民間の先祖供養の日としての趣旨のお彼岸を復活させたものです。皇室では、春秋ニ季の皇霊祭は宮中行事・皇室の祭祀として現在に至っています。

◆◇◆春秋ニ季の皇霊祭(宮中行事)は、祖先供養の風習を仏教色をのぞいて宮中行事化したもの

春分の日の三月二十一日頃(前後)、「自然をたたえ、生物をいつくしむ」ということで、日本の仏教では、平安時代のころから春秋に彼岸会(ひがんえ)が催され、悟りの彼岸へ至るための法要が営まれていました。また浄土思想の広がりとともに、彼岸の中日(ちゅうにち)の夕刻、落日に向かって念仏を唱えれば、西方の極楽浄土に往生出来ると信じられていました。しかし本来祖霊崇拝の思想は仏教にはなく、日本古来の風習が仏教と習合っしたと考えられています。明治以来宮中で行われる春秋ニ季の皇霊祭は、祖先供養の風習を仏教色を除いて宮中行事化したものにほかなりません。春分・秋分の日の趣旨は、「自然をたたえ、生物をいつくしむ」という日本本来の自然観に立ち返ったものといえます。

◆◇◆春季皇霊祭と皇室の祭祀

「春分の日」は皇祖皇宗を祀る「春季皇霊祭」の日です。皇祖とは天照大神から初代の神武天皇までの皇室の祖先で、 皇宗とは第二代天皇以降の歴代の天皇のことです。戦前に春分には「春季皇霊祭」が行われ、つまり皇室のお彼岸であってのです。これが宮中行事化していったのです。他にも 以下のように、皇室の皇祖皇宗を祀る祭祀は年に七回行われています。

1月7日 昭和天皇祭 (大祭) 昭和天皇崩御日に行われます
1月30日 孝明天皇例祭(小祭) 孝明天皇崩御相当日に行われます
3月21日 春季皇霊祭 (大祭) 皇室の御祖先祭神殿では「春季神殿祭」が行われます
4月3日 神武天皇祭 (大祭) 神武天皇崩御相当日に行われます
7月30日 明治天皇例祭(小祭) 明治天皇崩御日に行われます
9月23日 秋季皇霊祭 (大祭) 皇室の御祖先祭神殿では「秋季神殿祭」が行われます
12月25日 大正天皇祭 (小祭) 大正天皇崩御日に行われます

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